リレーエッセイ/第5回

記憶の記録 −Sweet Concert元年−

株丹智恵子 平成14年卒

(平成17年10月寄稿)

全体ミーティングの前、部長の私は佐藤先生のもとで簡単な打合せ。いつものように職員室・教頭先生の前、書類の山積みとともに観葉植物や盆栽が所狭しと置いてある見慣れた場所で、聞き慣れない単語が飛び出した。・・・「演奏会」・・・?!

昨年OBの方とともに行った100周年記念演奏会が大成功に終わったこともあり「いつか現役だけで演奏会を開きたいと思っているなら、今がチャンスだ」。どういった話の流れだったか覚えていないが、あくまで“さらり”と。そう、いつも先生は重要なことを言うとき、はじめはさらりとおっしゃる。そして、その時には既に、先生の頭の中ではだいぶ形がつくられていることが多い。

幹部の記録にはこう書かれてある。 ○5月2日昼【幹部会】  アンコンの後、演奏会?!…先生「今がチャンスなんだけど」 ○5月2日放課後【全体ミーティング】  やりたくない人も少々・チケット売れるのか?・やろうと思うなら、普段の生活から変えていかなければダメ・もっとみんなで!! ○5月11日【パートリーダー会】  先生「本当にやりたいのか?」意思表示をはっきり!・100周年でもチケットが売れなかった・お金をとる演奏が練習して出来るの? ○5月23日【全体ミーティング】  ・今は多くの学校がひらいている・去年の100周年はあくまでもOBメインの演奏会  ・いろんな作品に触れることが出来る・一人ひとりが役割を持ち、みんなでやるために大きな目標が欲しい  ・部員数(当時1・2年で90名弱)も含めて、やり始めるなら今・今までの先輩の大きな夢であった みんなは?…「是非やりたい」or「できればやってみたい」で全員!!

そして、最後は幹部に委ねられた。「いくら部員全員がやりたいと言っても、お前たちが少しでもやりたくないようだったら、この話はなかったことにしよう。」もちろんやりたい。いや、やってみたい!「私達の代でやらせてください」と言いきったところで先生はニコッと笑い、大きな挑戦はスタートしたのである。

もちろん、初めての演奏会を立ち上げることはとても難しくて時間のかかることであった。想像もつかない細かい部分からみんなで一つずつ決めていく作業は、意見がすれ違うことも多く、意見すら出ないこともあり…。何をやっているのか、自分達は何をしたいのか?きっと誰もが一度は「本当に演奏会なんて実現するのか」と疑問に思ったことだろう。

誰がステージに上がるのか(やりたい人だけ?引退された3年生は?)・チケットの値段(プログラムやスタッフ・司会などにより変動)・実演奏時間(70分以内+休憩2回)・名称(定期ではなくなるかもしれない。操山らしいネーミング)・構成(2部?3部?)…挙げればきりが無い。もちろん幹部さえも何を決めなければいけないのかもわからない状態の中で、佐藤先生の質問に答える形で少しずつ進めていった。今から思うと、もっと簡単に手っ取り早く進めることだってできたのかもしれない。しかし先生をはじめ私たちは、そんな妥協を許すはずもなく、今まで自分が聴きに行った演奏会のプログラム・チラシ・チケットの半券を音楽堂に持ち寄り、大きさや形、内容、構成などの調査をすることからはじめた。まずは「演奏会」を知ること。そして操山らしいものをみんなで選択していった。私たちにはその権利があり、責任があった。

ここでは“議論が盛り上がったベスト3”に確実に入る『名称決め』についてご紹介。 8月4日。蒜山合宿最終日の夜。コンクール練習もままならない状態の中、45分勝負の全体ミーティングが行われた。もちろん議題は名称決めである。パートで出した案を持ち寄る形だったので、たくさんの意見が出された。

「フレッシュコンサート」「ファーストコンサート」「操春コンサート」「夢コンサート」「ピカピカコンサート」「素敵・過激・きらめきコンサート」「みみずくコンサート」「みみずく演奏会」「操コンサート」「青春のドレミ〜ファーストコンサート〜」「もももコンサート」「ファミリーコンサート」「スウィートコンサート」「操心コンサート」「スマイルコンサート」「ドレミファソーザン・カキクケコンサート」

候補としても疑問があるものもあるが、それぞれの理由(由来)を参考に多数決をとった結果 ・操春コンサート(操山の春と2月の早春とをかける)…39票 ・みみずく演奏会(操山シンボル・コンサートではなく演奏会が良い)…22票 ・スウィートコンサート(佐藤先生→砂糖→甘い→スウィート)…42票 ・ドレミファソーザン・カキクケコンサート(松柏祭テーマの流れ・リズムが良くて楽しい)…24票

ということで、最終的に確かトロンボーンパート案の「Sweet Concert」に決定となった。その時は若干無理があるようにも聞こえたが、後からSweetの意味を調べると、「気持ちの良い・美しい」「音・香り・調子などが快い」「かわいい・素敵な・優しい」「新鮮な」「快適な」の意味もあることがわかり、後になって満足感が高まった記憶がある。そして今となっては、もういなくなったみみずく入りや、やたらと長い名前にならなくて本当に良かったと思う。色んな面で操山ブラスにしか当てはまらない「Sweet Concert」という名前を大切に引き継いでもらっていることを誇らしく思うと同時に、いつまでもSweetな演奏会を開いていって欲しい。ついでにあえて厳しいことを書き記しておくが、「Sweet Concert」はご存知のように“定期演奏会”ではない。イコール、毎年開かなければいけない演奏会ではない。もちろん会場を予約する都合もあるとは思うが、Sweetを引き継いでいく後輩達に伝えたいことは、“やらされている”“去年もやっていたから何となく…”といった気持ち、演奏会を開くことが当たり前のような感覚にならないで欲しいということである。

吹奏楽部の年間行事は、基本的に多い方だと思う。林病院祭り・新入生歓迎会・松柏祭など、毎年恒例のものに加えて、桃太郎まつりや米子西高校との交流会、サンセットブラス2000…プラスαの行事もある。部員数も1・2年で20人程増えたり、蒜山合宿も2年目ということで、様々な面で反省や見直しが必要となり、去年と同じでは通用しない一年だったようにも思う。いや、同じにしてはいけなかったのだ。ついつい「ちなみに去年は…」などと先生に尋ねると、「去年と同じことをやっても意味がないのに、なぜ聞くのか?」という答えが返され、「またやってしまった」と何度も反省した。どの行事に対しても、参加・不参加の判断は部員に任されていたと思うし、自分達がやると言ったことには責任を持って納得できる状態で望みたいと思っていた。

○5月11日【パートリーダー会】…蒜山合宿の部屋割り決定 ○6月17日【全体ミーティング】…文化祭の舞台テーマ話し合い ○7月17日【係チーフ会】…合宿の係決定・合宿しおりの原稿を各係で作成→提出 ○9月12日… 松柏祭のパレード練習(運動場) ○9月20日(19日が日曜日だったので一日遅れて)…佐藤先生の誕生日ドッキリお祝い大作戦

10月中…チケット原稿完成 11月…チケット販売開始・大まかなプログラム 年内…曲・曲順決定 冬休み…小道具などの作成 ☆アイディアで中身勝負(照明などの効果に頼らない)

あとはもう、毎日いろんなことが書かれてある。吹奏楽フェスティバル、オープンスクール、バンドフェスティバル、サンセットブラス2000(米子・西日本)、被災見舞いをかねた米子西高校との交流会、3年生との感謝祭、東商業高校さんの舞台準備とリハーサルの見学、アンサンブルコンテスト…。たくさんの行事を通して、多くの吹奏楽つながりの仲間が増えたし、部内の交流も深まった。もちろん日々の活動では、退部したい仲間がいるとか、せっかく決まった新幹部の交代、パートノートが回らない、譜面台が足りない等、いつの代でもいくらでもある問題にぶつかりながら少しずつ進んでいった。

私が部長について改めて考えたのも、Sweetがきっかけだった。

部長。書類や形式上、代表者として名前が出ることも多いが、ピラミッドの頂点のような役ではない。代表者として名前を出すことは、部長の仕事。ただそれだけのことだ。部全体の運営も、先生とのパイプ役も、仕事の一つに過ぎないわけである。運営面において、部全体がより良く活動できるようにする。そのためには、皆のことを知り、その人が生きる役を見つけ、任せることが必要になってくるのではないかと考えていた。(「小さな政府」ではなく「小さな幹部」?!)しかし、軌道に乗ってきたと思われたSweetでは失敗。必要な仕事をみんなで考え、小さな係をたくさん増やして、各係でやるべきことを一緒に考え…とここまでは良かったのだが、一向に前に進まないのである。

なぜ??先生に指摘されてやっと気付いた。任せっぱなしにしていた。「任せるだけでは責任を転嫁したことと同じ。何か困ったことはないのか、きちんとサポートし管理しなければ意味が無い。それが幹部の役割だろう!」まさにその通りだと思った。そしてその部分を考えるようになって、明らかに皆の活動状態が変化したのである。歌係の指導の下、昼休みに手話や合唱の練習をしたり、寒い中、プレハブ横でDancingによってスタンドプレイの厳しいチェックが行われはじめ、見た目にも自然と活気付いてきた。幹部が焦らさなくても、プログラムの原稿は知らない間に先生に届けられ、着々と準備が進んでいるのを見ながら、副部長の岩井さんと「何をしようか〜?」と話した記憶がある。本番が近づき、だんだんと全体像が見え、自分達のやりたい演奏会をイメージできるようになったからかもしれない。でもそれは後から思ったことで、その時は、その雰囲気が、皆の姿が、ただ嬉しくてしょうがなかった。

プログラム係から届いたばかりの完成品を渡された日、曲目紹介・先生の紹介・表紙の絵、そして部員名簿をじっくりと見た。自分では意識していなかったけど、それまでの長い間、糸がピンと張っていた状態だった。一緒に話したこと、何気ないこと、たまには無理を覚悟でお願いしたり、厳しいことを言ったけど、きちんと対応してくれたこと。一人ひとりの名前とともに、思い出され、そして、今の部の姿があるんだなぁと思うと、あとは絶対に上手くいく!という強い確信と安心感と嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいになった。うちは3人同室なので、妹達を起こさないように気をつけながら、流れる涙をこらえきれなかったことも、今となっては良い思い出である。パートリーダーには、細かい部分まで厳しい注文を出し、積極的な姿勢や意見を求めた。係のチーフには、活動内容充実のために自分達が出来ることを何度も考えてもらった。全体ミーティングでは、一人長々と、言いたいことがぐちゃぐちゃになりながらも、何かにつけてしょっちゅう話していた。まだ入部間もない一年生からはどう思われていたのか(怖いとか、厳しいとか…??)たまに不安になることもあったけど、みんな聞いてくれたし、それに対して反応もあった。先生からではなく幹部から伝えたい、幹部の気持ちはパートリーダーに深く理解してほしい。そして、全員からの反応を受け入れることができる一部員としての部長になりたかった。

今まで話したことがなかったり、「顔が四角い!」→「(あんまり否定できず)そんなことない!!」(コンマス談)など、一見仲が悪いのかと思いきや、なぜか(?)上手くバランスがとれていた幹部4人。特に岩井さんとは家に帰ってからも話は尽きず、はじめは電話だったけど、本業にも手がつかなくなってしまうため、FAXが大活躍した。(今だと間違いなくメールだと思う。その頃はちょうどPHSから携帯電話への移行期で、高校生への普及が急速に進んでいた頃だと思うが、残念ながら私は自分の携帯を持っていなかった。)FAXだとメモとして残るし、自分が言いたいことだけを書いて送るので多少の時間節約になっていたような気がする、と信じていた。明日やらなければいけないこと・先生へ聞くこと・最近の部内人間模様…一人が全体を把握することは難しいので、裏の情報交換がとても大切だった。そして、送信済みの紙を入れていたファイルがいっぱいになった頃、2月11日はやってきた。

さすがに本番は演奏に集中で、顔がこわばるほど緊張し、自分達のステージを思いっきり楽しんだ。お客さんが予想以上に多いことに驚き、佐藤先生のお馴染みの笑顔にホッとし、いつの間にか2時間が過ぎようとしていた。最後の影アナが流れ、舞台の照明が落ち、退場のタイミングを見計らっていたところである。明るくなった客席から、どこからともなく拍手がおこったことを覚えているだろうか。ただ、私たちの移動が遅かったからかもしれないが、次第に大きくなる予想外の拍手に私たちは呆然としながらも、“どうやら演奏会は成功したらしい”と感じることができたように思う。

舞台袖に流れた87名は先生やOBの方からの拍手に迎えられ、満足感と達成感でいっぱいになった。 佐藤先生の計画的な思い付きにより始まった、約9ヶ月間の挑戦が一つの形になったのである。

1999年10月9日。入部して5ヶ月少し経った例年より早い幹部交代の日に、私の役割をみんなに選んでもらってから、正式に引継ぎをした2001年3月10日までの約1年5ヶ月は、異常に長い任期だったのかもしれない。しかし、この貴重な経験によって、様々な面で大きく成長させてもらい、今にもつながる考え方や判断力や時間の使い方などについても自然と考えることができた。これはもちろん、87名の仲間がいたからである。そして、完全にあの時のメンバーでなくては為し得なかった1年5ヶ月の活動だった。

最後に、記録ノートに引退後に書いた幹部後輩たちへのメッセージを転記する。

「幹部」という役目は、先生との連絡や、80人以上(私たちの時は)の部員をまとめたり…。あまり多くの人が経験しないような、数え切れないほどたくさんのことがあります。楽しいことよりも、どうすればよいかわからず、辛い時のほうが多いかもしれません。でも、いつでも忘れないでほしい、というより、忘れてはいけないことは、あなた達の周りには多くの仲間がいるということです。いざという時に心強い同級、かわいい後輩達、引退してからはなかなか会うことは難しくなるけれど、頼りになる先輩方、そして佐藤先生をはじめとする顧問の先生。他にもリーダー研修会で出会った県内のリーダー達、楽器やトラックでお世話になる方…。吹奏楽を通じて出会った多くの仲間。その中には幹部をしていたから、というつながりも多いのではないでしょうか。自分だけが大変とか辛いとか思うのではなく、同じか、たいていはもっと大変な思いをしている人のほうが多いのです。それに、何か問題があるから幹部が悩んでいるわけで、そういうときには当事者のほうが辛いのです…。 幹部は、全体に対してということが多いけれど、考える時には、様々な立場に立つことが大切だと思います。PL会だけでなく、いつでも部員一人ひとりとのコミュニケーションをとって、部員の皆がどう考えているのか、そうしてその中から自分達には何が足りないのかを感じ、そのことについて話し合って向上していく。初めからは無理だけど、少しずつ自分達の理想とする部に自分達で近づいていけるように…。そのためには努力を惜しまないでほしいと思います。 “部員を信じて、できるだけ任せる”ということは、思ったより何倍も難しいことでしたが、それを誰に任せるのか、その後のサポート等、幹部としての経験や、部員にとっての幹部に対する考え方によって結果は大きく変わってきます。結果よりも過程を大切にして、何をするにも怖がらず、部員全員で多くのことにぶち当たって下さい。よく言われていることですが、結果は後からついてきます。頑張った分、辛かった分、達成感と満足感が大きなオマケとして“×(かける)部員数”でもれなく付いてきますよ(笑)先を見通した現在の活動の充実に、この記録が少しでもお役に立てば幸せです。

立ち上げに関わることができた仲間には、それぞれの想い出を懐かしむことができるように、 100周年演奏会で土台をつくり、当日も陰で支えてくださったOBの方々には、心から感謝の気持ちを込めて、 新しい歴史を創り上げていく多くの後輩たちには、Sweet元年の記録資料として 本稿を記す機会を与えてくださり、嬉しく思います。

編集後記

超大作ですね :)。なんだか、だんだん、リレーエッセイが大作化しているよ うな気が‥‥(すみません、元凶は私ですね)。

スイートコンサートの由来が「佐藤先生」→「砂糖」→「甘い」とは、知りま せんでした。

大きなことを始める時の苦労、そしてそれを達成した時の充実感が、しっかり 伝わってきます。もちろん、株丹さん一人の力でSWEET CONCERTができた訳 ではなく、株丹さんと共に、大勢の部員・幹部の皆さん、顧問の先生方、OBの 皆さんの力によって、SWEET CONCERTの成功があることは言うまでもありませ ん。しかし、部長という重責を担い、第一回の定期演奏会開催に向けて注がれ た努力の量は、一際大きかったことと思います。改めて、「ご苦労様、そして 有り難う」との言葉を贈りたいです。

しかし、リレーエッセイが大作化してしまい、次の人が書き難いですね。とい うことで、次回は、「大作厳禁! 極短エッセイ募集!」をやりたいと思いま す。吹奏楽部にまつわる思い出・記憶・記録・感想・意見・グチ・ボヤキ・雑 談等々 :p、何でも結構です。大きな想いを短い文章に込めて‥‥、どなた か、書いてくれません?


  • 株丹智恵子 氏
    • 平成14年卒、パーカッション。現在(H17)は、大学の学生さん。現役時に100周年記念演奏会、Sweet Concert (第1回) を体験された。特に、エッセイ中にもあるように、第1回のSweet Concertの立ち上げに部長として尽力され、現在も続くSweet Concertの源流を形成された。また、卒業後も、OB会事務局員として、積極的に活動されている。掲示板では、「大家族の母」さんとして、お馴染み。
[三浦克介](../../e4b889e6b5a6e5858be4bb8b)

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