リレーエッセイ/第1回

ホルンと私と操山と

宮武良平 昭和52年卒 (日本フィルハーモニー交響楽団ホルン奏者)

 私はホルン吹き。そうなるきっかけは、中学生の時に遡る。「運動部で女の子にモテよう!」とテニス部に入部したものの、半端な運動神経ときつい事がいやという性格の為、テニス部では挫折の連続。コートの隣の吹奏楽部の部室からはいつもブ−とかピーとかドシャーンと楽器の音が。悩める中学2年生の春、なぜか気になるこの音に引き寄せられるように吹奏楽部に転身。ブラバンと言えば誰もが憧れるトランペットを希望、しかし、そのパートはすでに定員に。そこで、割り当てられたのがユーフォニアム。    そんな私が最初のコンクールで取り組んだ曲が、ドボルザークの「新世界交響曲」の第四楽章。これが、本来は管弦楽の為に書かれた物と聞き、レコード(フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団)とポケットスコアを手に入れる。そして、聴いてびっくり!見てびっくり!な、な、なんとユーフォニアムは出て来ない??もう一つの驚きはホルンの活躍。その優しくも力強い御響き!!その瞬間ホルンパートに転向する事を決心。しかし、コンクールはユーフォニアムで出場。

 コンクールが終わり念願のホルンパートに。なぜか、この時すでに「プロのホルン吹きを目指す。」と思い込んでおり、「音大を目指すなら高校は操山がいいぞ。」と言う先輩(操山の生徒で吹奏楽部員)の助言に従って入学。ホルンは操山の先輩でもある新田厚先生に、ピアノは当時操山の先生でいらした金谷方子先生に師事と、ほとんど操山関係。そして、この頃岡山ジュニアオーケストラで太田先生と、グリーンハーモニーで佐藤先生と出会いお世話になる。後に御二人とも操山に着任されるとは。高校生活は言うまでも無く音楽に明け暮れ、他の勉学は超低迷。そして、東京の大学へ。

 私をホルン吹きへといざなったのは中学生の時聴いた1枚のレコード。しかし、音楽家になる為の具体的なステップは高校での3年間だったと言える。“3年1組”(芸術分野などの進路を目指す少数の生徒の為のクラス。実際このクラスから作家、デザイナー、画家、音楽家などが出ている。)の存在、進級に支障をきたす程成績が悪いにもかかわらず、専門分野で頑張っている事を評価して大目に見てくれた先生達、そして何より弱小ながら愛すべき吹奏楽部が有った事が私を夢に近付けてくれたと言えるだろう。いわゆる“落ちこぼれ”の私が幸せに?夢を見続ける事の出来た学校、それが操山高校である。

編集後記

新企画「操山ブラスリレーエッセイ」第1回は、宮武良平さんにご登場いただきました。宮武さんといえば、100周年の時の感動的なホルンソロが管理者には深く印象に残っています。

この度は原稿の依頼を突然メールで差し上げたところ、お忙しい中快諾していただき、それからわずか数日で原稿を送ってくださいました。本当に感謝です。ありがとうございました。

いつか、文中で宮武さんに操山進学を勧めた、そのお方にもご登場いただく予定。お楽しみに。

[吉見一成](../../e59089e8a68be4b880e68890)