三浦克介 昭和63年卒
今から15年ほど前、昭和天皇が崩御し、故小渕恵三元首相・当時内閣官房長官が、上下をチラっと確認した後に「平成」と書かれたパネルを記者団に提示して、平成の世が始まってから、間も無い頃のことであったと記憶している。私が、大学3回生の頃の事である。
当時、操山高校吹奏楽部OB会の活動は、お寒いものであった。卒業後5年以内のOBに対してのみ案内を送って、盆と正月、年二回の懇親会を開催するだけであった。OB全員の名簿を管理する手間や、案内を送付する費用がかかる割に、卒業後の年数が経過したOBの出席率が低い為に、このような活動形態になったものと推察される。現在のように、合奏を行うことは無かったし、OB会として組織立って現役生の部活動を支援することもなかった。一部、若干名の熱心なOBを除けば‥‥
OB会の幹事は、卒業後2年を経過した学年が担当し、毎年交代することとなっていた。これは、上下2年の学年と面識があり、大学生という比較的時間の都合がつけやすい立場にある、という理由からであったと思われる。大抵は、現役当時に部長だった者が幹事を務めていた。このような理由から、大学3回生となった私にOB会幹事の役が回ってきた。その直前か、直後のOB会でのことだったと思う。 高原景介先生が、突然、次のような事をおっしゃられたのである。
「もうそろそろ、卒業後5年以内の人だけというのは、止めにしよう。東商 (注;岡山東商業高等学校。高原先生は、以前、東商業の吹奏楽部顧問でした) では、全学年、何百人ものOBに案内を送っていて、通信費だけでも、年に何十万もの費用をかけてやっている。OB会の時には、合奏もやっている。一部の人が集まって、宴会をやっているだけではダメだよ。」
というような内容であったと記憶している。かくして、幹事となった私に、「OB会メンバーの全学年化」という責務が課せられることとなったのである。
まず、行うべきことは、OB会名簿の整備であった。前代の幹事さんから渡されたのは、過去5年間の卒業生、高原先生世代のOBの名簿のみであった。それ以前の資料はまったく無かった。幸い、高原先生以前は、創部以来の長きに渡り金谷先生お一人が顧問をされていたので、金谷先生に連絡を取るだけで、ほぼ全学年の名簿を入手することができた (創部当時の頃の古い名簿は、残念ながら含まれていなかったが)。
次の問題は、名簿を如何に管理するかであった。卒業後5年以内のみであれば、全員でも150名程度、手書きや単純なワープロでも事足りた。これが、全学年の名簿になり、一気に600名以上の名簿管理を行わなければならなくなったのである。しかも、年2回、数百通の案内を送付しなければならない。さらに、今後、毎年30名程度ずつ、新たな卒業生が増加していくのである。手書や単純なワープロでは、いずれ処理できなくなることは明らかであった。
現在であれば、「パソコンを使って、MS-Excel (表計算ソフト) やMS-Access(データベースソフト) で管理すればいいじゃないか。差し込み印刷で、葉書の宛名印刷もできるよ」、と軽く言えるのだが、15年前はそうはいかなかった。当時は、NECのPC-9801シリーズのパソコン (当時はマイコンという言い方の方が一般的であったように思う) が、ビジネスの分野で広まって来ている頃であった。 OSはMS-DOS。MS-Windows は、ver.2 が出てきた頃で、ほとんど使われていなかったと思う。パソコン本体は、現在よりもかなり高額であり (安いものでも、ディスプレイとセットで40万円程度はした。しかも、ハードディスク無し)、ビジネス用ソフトもやはり高額であった。大学生が購入するのは困難であり、OB会の予算で買えるような物でもなかった。
しかし、私は、パソコンを持っていた。NECのPC-98LTという機種であった。このパソコン、PC-98と名前が付いているが、当時、広く使われていたPC-9801シリーズのパソコンとは互換性が低く、ほとんどのソフトは使うことができなかったが、その分、値段は安かった。以前からパソコンに興味があった私は、このパソコンを中古で購入して使っていた。しかし、「コンピュータ、ソフトが無ければただの箱」と言われるように、名簿管理をしてくれるソフトが無ければどうにもできない。PC-9801シリーズ用のソフトは使えないし、仮に使えたとしても、ビジネス用のソフトは高くて買えなかった。仕方無く、私は、テキストエディタ (notepadや秀丸エディタのようなソフト) と自作のC言語のプログラムを使って名簿管理をすることにしたのである。かくして、600名を越えるOBのデータをテキストエディタで入力し、これを自作のプログラムで処理して、案内ハガキを印刷する仕組みを整えたのであった。
こうして、どうにかこうにか、年2会、住所が判明している数百名のOBに案内を送付できるようになったのである。人数は少なかったものの、金谷先生世代のOBも出席してくれるようになり、「卒業後5年以内のOB限定」は撤廃されたのであった。しかし、ここで、新たな二つの問題が浮上してきた。一つは、幹事の持ち回りの問題であり、もう一つはOB会運営費の問題であった。
前述したように、600名を越すOBの名簿管理、案内の送付にパソコンを使うようにした。このことが、幹事引き継ぎのネックとなってしまったのである。翌年、幹事を次学年の後輩に引き継ごうにも、パソコンを持っておらず、引き継げなくなってしまった。今更、手作業で案内葉書を作成するのはあまりに非効率であり、私が引き続いて名簿管理・案内ハガキの作成を行う方が、いくらかましな選択に思われた。仕方なく、名目上は後輩に幹事の座を譲ったものの、実質的には、私が名簿管理、案内ハガキの作成のほとんど行うという状態が数年間続くはめになってしまったのである。
もう一つの問題は、OB会の運営費、特に通信費の問題であった。案内を送付する人数が一気に膨れ上がったことで、通信費も大幅に跳ね上がった。当時、OB会の運営費は、年2会開催する懇親会の会費のみで賄われていた。宴会代よりも多めに会費を徴収し、余った予算を通信費に回すという会計であった。それでも、懇親会出席者が多ければ、なんとかなっていた。「卒業後5年以内のOB限定」が無くなり、久しぶりに旧友に会いたいというOBが来てくれたことや、参加の勧誘をしたことなどから、初めの頃は、比較的多くの参加者があり、それなりに回っていた。しかし、目新しさが無くなったこと、実質幹事役を後輩に代わってもらいたいという心理から、極力、幹事としての活動を抑えようとし、参加の勧誘も行わないようにしたこと、などの理由から、OB会参加者の人数がじりじりと減少していったのである。そうすると、固定費用である通信費を確保するために、一人あたりの参加費を値上げせざるを得ず、このことが更なる参加者の減少を招くという悪循環に落ち入ってしまったのであった。
一つ目の問題はともかく、二つめの問題は次第に深刻となっていき、OB会において何度か議論されるようになった。「OB全員から年会費を徴収してはどうか」、「卒業時に、入会金あるいは初年度会費を徴収してはどか」、といった案が議論されたが、一つ目の案は、「手間が掛かる割に収入の見込みが薄い」と判断され、二つ目の案は、「OB会と現役生の繋がりがまったくない現状では、卒業時に、いきなり『今日からあなた達はOB会の会員ですから、お金を払って下さい』と言うのは無理がある」として、現役顧問の先生の同意が得られなかった。「OB会の際に、合奏をしてはどうか」との案も出された。参加者増に繋がるのではないかという期待と、現役も合奏に参加するようになれば、OBと現役の繋がりができ、卒業時に会費の徴収がし易くなるのではないかという目論見があった。しかし、「合奏を行う為には、部室や楽器を借りることになり、現役生の協力無しには行えない。しかし、現状では、盆・正月の最中に登校して、OBと共に合奏することのメリットが、現役生には無い」との判断から、直ちに実現には至らなかった。こうして、議論の進展が無いまま、数年が経過した。
そうこうするうち、1995、6年頃、言い出しっぺは高原先生であったと思うが、次のような提案が成された。「西暦2000年に、操山高校が創立百周年を迎える。それに乗じて、OB会と現役合同の演奏会を開催してはどうか」、というものであった。創立百周年記念演奏会という大きな目標があれば、OBも大勢集まるようになるだろう。現役オンリーでは演奏会の開催は困難であり、OBの協力が不可欠であるから、「OB会の協力によって、演奏会ができた」となれば、現役生にもOB会の存在が実感でき、OB会と現役の繋がりが深まるだろう。というような、目論見であったと記憶している。
いくら創立百周年記念とは言え、操山高校吹奏楽部が演奏会を開けるのだろうか‥‥? 操山高校の演奏会なんかに、お客さんが集まるのだろうか‥‥? かなり不安があった。岡山県下の高校の吹奏楽部で、演奏会を開いているのは、コンクール中国大会常連校の数校だけである。もちろん、県立普通科五校 (当時は、総合選抜を行っている、操山、朝日、芳泉、一宮、大安寺がこう呼ばれていた。五校が集まってのスポーツ大会、「五校戦」なるものもあった。現在は、五校戦も無いし、入試制度も変わっているんですよね?) で吹奏楽部演奏会を開催している学校は無かったはずである。
一物の、いや、かなりの、いやいや、非常に大きな不安はあったものの、「動き出してしまえば、あとは勢いでなんとかなるさ」という、極めて楽観的見通しの元に、1997年頃、演奏会まであと約3年という頃のOB会総会兼懇親会において、岡山県立操山高等学校創立百周年記念 吹奏楽部演奏会の開催が議決されたのである。
こうして、とにもかくにも、演奏会開催に向けて動き出すこととなったのである。 まず、OB会の組織をきっちりとしたものにしようということで、役員を決め、事務局を置くなどの組織化が行われた。また、演奏会に向けての練習と称して、懇親会だけでなく、合奏が行われるようになった。こういった作業を、現在も役員・事務局としてOB会を引っぱって下さっている、八木さん、松岡さん、吉見君を始めとする中心メンバーの方々が行って下さり、皆さんご承知の通りの、百周年記念演奏会の成功、そして第2回、第3回へと続く定期演奏会化への流れとなっていくのである。
このように、OB会活動が活性化していくのとは反比例して、私のOB会への寄与は減っていった。私が大阪在住であり、遠方から細かな業務を行うことが難しかったこと、結婚したことにより時間的制約が大きくなったこと、数年間に渡り実質幹事をしてきた私に対し松岡さん、吉見君諸氏が気を使ってくれて、幹事業務を自ら代わってくれたこと、等がその要因である。かくして、百周年記念演奏会の準備には、あまり関わることができなかった。当日も細々と裏方の手伝いをしただけである。第2回以降の演奏会に至っては、当日、聞きに行くことすらできなかった。誠に残念であるし、切っ掛けを作った身でありながら、その後の最も大変な作業を人任せにしてしまったことを、大変申し訳なく思っている。これまでの演奏会開催、そして現在のOB会活動を支えて下さっている方々には、到底、足を向けて眠ることができない (事実、毎晩、西向きに寝ています)。昨年、長子が誕生し、ますます時間の自由が効かなくなってしまった。OB会役員、事務局のほとんどの方が、家庭を持ちながら、OB会活動に活発に関わっておられることは、私にとって驚愕に値する事実であり、尊敬の目差しを送らずにはおれません。
かくいう訳では、私には、「操山高校吹奏楽部OB会 活動活性化の経緯 −後期編−」を語る資格はありません。現役員・事務局のどなたかに、その後の経緯を語って頂けると幸いです。やはり、最も適任なのは、事務局長として様々な業務を取り仕切って下さっている、松岡さんではないでしょうか。ひとまず、次のリレーエッセイストとして、指名をさせて頂きます。
松岡先輩、宜しくお願いします。
新サーバー設置の件で、大変お世話になっている三浦克介(ミウラカツヨシ)さんは、管理者の1年先輩で、現役当時は部長をしておられました。現在は国立O阪大学大学院情報科学研究科にお勤めで、情報システム工学がご専門。
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