リレーエッセイ/第7回

髙原先生ごめんなさい

昭和62年卒 Tp 松岡 聡

(平成19年6月寄稿)


 髙原先生の日記的随筆を読んでしみじみ感じている。それは、高原先生の教え子になれてよかったっと言う点と、先生ごめんなさい・・・。という思いである。

 先生の玉川学園の出会いの話を読んで感じた。『あー、私も玉川で学びたかったなあ・・・』という後悔の念だ。実は私が高校生の頃に、髙原先生から玉川学園の話を聞く機会があり、興味がわき、どんな学校なのかか調べてみたのだ。当時希望していた小学校課程の学科があり、さらに、幼稚園部・初等部・中等部・高等部・大学のすべてで行われている体育祭や、大学一年生全員による第9合唱にもあこがれ、行ってみたい思いがふくらんでいたのだ。ただ、当時の私は地理を得意とし、日本史は捨て、音楽を専攻していた。玉川学園の入試科目は日本史か世界史の選択であったため、受検不可能であったのだ。トホホ・・・という思いであった。が、運良く??(ではないですね・・)浪人してしまい、その間に入試科目が減り、日本・世界史は必要なくなったのでる。ラッキーなことに浪人したために受検可能になったのだ。

 そこで、浪人中、髙原先生に受験希望であることを相談したところ、「まっつぁんの雰囲気は玉川の雰囲気に合うぞ〜」と言ってくださり、私を学園にご推薦してくださったのである。しかし、私の努力不足と力不足で不合格・・・。この瞬間に浪人中だった私の玉川大学進学は絶たれてしまったのだ。と、同時に小学校の先生になる夢も絶たれてしまった。

 このようないきさつの中、先日、髙原先生の随筆を読んでいて、あらためて、しみじみと、先生の教え子でよかった。先生との出会いがあったからこそ、今の教員(農学部に進学したため、農業高校で農業の教員)である自分があるんだなと思った。私自身は音楽の教員ではないが、農場で野菜や果樹を栽培し、食品加工室でパンやジャムや発酵食品を製造し、それらを生徒とともに楽しむ自分があるし、放課後は吹奏楽部顧問として、音楽を生徒と楽しむ自分があるのだ。それだけではない。知らず知らずに夢を追い続けている好奇心の強い自分がよく考えたらいつもあるのだ。髙原先生に出会い学べたことで知らず知らずに身についたものなのかもしれない。

 髙原先生との高校生での出会いと教員としての出会い(再会)が、私の人生にとっての大きな宝物であることにまちがいない。この教えを、音楽だけでなく、親(師匠の髙原先生)から子(教え子の私)、子から孫(私の教え子たち)に伝授していきたい。

 私は自分の教え子たちには吹奏楽部の教え子にかかわらず、クラスでも「ハートづくりは音づくり!」と教えている。心を磨くと音は自然に磨かれる。心とは、人として大切なものであり、それが磨かれると人間として仲間とのハーモニーが出来ると思うからである。吹奏楽でもそうだと思う、音楽を楽しむ心やそれに臨む心(姿勢)が出来ていれば素敵なハーモニーになると。

 最後に、縁あってOB会の事務局長をさせていただいているが、私は操山が大好きである。操山吹奏楽が大好きである。私自身、様々な人に出会い、様々な教えを学びましたが、出会いって大切だし、自分の心を大きくするためには周りに支えられているんだなあらためて感じいる。これからも、このOB会に関わり、本業である教員もそうであるが、音楽をこよなく愛することが出来る環境を提供し続けていきたい。

 みなさん、どんな出会いも大切にしましょう。今日の出会いが一生の出会いなのかもしれませんよ! 様々な人との出会いや、心は財産であると私は思う。

 髙原先生、ごめんなさい。でも、ありがとうございます。感謝しています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

編集後記

事務局長 松岡さんが、満を持しての登場です。髙原先生随筆Web に掲載された 小原国芳先生の思い出 を読まれて、「心に熱いものが込み上げて来た」そうです。その勢いで、掲示板 に文章をアップされ、それに加筆・修正されて、リレーエッセイとして寄稿して頂きました。

[三浦克介](../../e4b889e6b5a6e5858be4bb8b)

  • 松岡 聡 氏
    • 昭和62年卒業、Trp。高原景介先生のご指導の下で、全日本吹奏楽コンクール中国大会に二度出場。吹奏楽部OB会事務局長として、OB会を実質的に引っ張って行って下さっている。元岡山県立高松農業高等学校 教諭。同校吹奏楽部 元顧問。現岡山県立井原高等学校教諭。農場長(園芸学科長)として農業(野菜・果樹・食品など)を教える傍ら、同校音楽部吹奏楽団・管弦楽団顧問。