リレーエッセイ/第2回

無題

吉見一成 平成元年卒


 中学1年生のとき、某運動部を参加初日に退部し、放課後暇を持余していた私を、悪友がブラスバンド部に誘った。自分には無縁の世界だと思ったが、断るのも悪いと思いしばらく付き合ってみることにした。

 翌日、入部届をもって顧問の先生の所にいくと、楽器は何をやりたいかと聞かれた。「クラリネット!」と即答したが、これは木管アンサンブルをやりたかった悪友からの指示であり、そのとき「クラリネット」がどんな楽器であるかも知らなかった。すぐに練習場所へ案内され、クラリネットパートに身柄を預けられた。パート内で男子は私独りだった。

 練習は厳しかった。もともと不器用で譜面も読めなかったので、独り皆から離されて毎日個別で先輩から扱かれていた。正直なところ全然面白くなく辞めたいと思っていたが、途中で投げ出すことへの自己嫌悪感もあり悩んでいた。練習は日増しに辛く感じられた。

 学年末が近づいたある日、顧問の先生から呼ばれた。先生の前で吹いてみろと言われ、恐々と音を出した。その後意外な一言が耳に入った。「上手い。毎日よぉ頑張った。その調子だ。」今にして思えば上手い訳がない。毎日暗い顔して半泣き状態で練習していた、今にも辞めてしまいそうな一部員への励ましの言葉でしかないのだが、それまでの自分が嘘のように気持ちが楽になり、俄然やる気が沸いて出たのを憶えている。入部して初めて誉められた日だった。

 中学2年生の夏、操山へ進学したブラスの先輩が中国大会へ行くと自慢に来た。チュウゴクタイカイ、、、恥ずかしながら何のことか分からなかった。私たちの学校はその年念願のコンクールB部門の最優秀賞を獲得し、鼻高々だった。当時私はA部門の存在を知らず、自分たちが文字どおり県内最優秀だと思っていたのだ。初めて知った全国へ通じるコンクールの存在。無謀にも3年の夏にA部門に出場したのであるが、レベルの違いを嫌という程見せ付けられ愕然となり、その時、志望校を操山に決めた。中大へ行く程のバンドの中で吹いてみたいと思った。

 操山高校吹奏楽部に入部して、驚いたのは音楽的なレベルばかりではなく、人間的にも遥かに自分を凌駕する人々。先輩にも同級生にも色々な意味で凄い人が何人もいた。単に真面目で勉強ができるとか、楽器が上手いだけではなく自分には無い「豊かな個性」とでも言おうか、強烈なキャラクター集団がそこにはいた。(後に入部してくる後輩も同じであった。)そのツワモノ達と一緒に過ごす時間が、私にとって至福の時間であった。放課後の部室、夏のコンクールの練習、演奏会に向かうバスの中(会場が岡山市民会館のときは、学校から楽器を載せたリヤカーを引いて歩いた)、県外遠征中(熊本)の宿…、本当に懐かしい。先輩、同級生、そして後輩、素敵な仲間達がいつも周りにいた。楽しいときには一緒に笑い、苦しいときには励まし合った。

 卒業して、そんな仲間達とも離ればなれになって10年以上経った。みんなそれぞれの場所で仕事や家庭を持ち、地元に残った人は少なく、数年に一度、OB会で再会を喜ぶ。操山に行けば昔と同じプレハブ部室の壁に現役時代の写真があるが、その色あせに長い時間の経過を感じる。写真の中の自分は、今と違って随分スマート(笑)だ。そりゃそうだ。夏は補習授業に遠慮して、閉め切った部室で合奏していた。玉の汗を流しながら、毎日一生懸命吹いた。生半可なダイエット法など到底及ぶはずもない。。。楽器も当時から下手だが、吹くことは楽しい。社会人になって初めてした借金は、車ではなく楽器を買うためだった。今は月一回程度の緩やかな練習が許される吹奏楽団に所属している。高校時代と同じ曲を吹くことがあるが、当時何ともなかったのに今は息が切れる。でもそれがやはり楽しい。昔の自分と競争しているような気分。追い付けないまでも、気長に追いかけよう。見失わないように。

編集後記

 吉見一成は即ち私ですが、当初の予定を変更して、今回掲載させていただきます。第1回で予告していた、宮武さんに操山進学を勧めた大先輩がご多忙中の為です。また原稿を頂き次第、掲載いたしますのでご了承ください。

 読み返してみると、中学時代の記述が多いのですが、今は中学校も併設されてるから、まぁいいか。。。

[吉見一成](../../e59089e8a68be4b880e68890)